同窓会副会長・黒菱山荘委員会委員長 浦川伸一(高校32回)

1. はじめに

1998年、長野冬季オリンピックの男子滑降競技の舞台となった八方尾根スキー場。そのゲレンデのど真ん中に当校黒菱山荘は位置している。その立地場所は、麓の旅館ホテル街からさらに800mほど高地にある。標高約1500m。まさにゲレンデのど真ん中という表現が相応しい。

筆者が生まれた年と同じ昭和36年7月、黒菱山荘が竣工、今年で50年の月日が流れた。当時山荘建築に携わった諸先生、諸先輩の方々は、よもやこの山荘を建てた田舎の山奥が次第にリゾートスキー場に変貌し、オリンピックを招聘するまでに至るとは思いもしなかったことだろう。

山岳部OBを中心として建立された黒菱山荘は、長い間石神井高校の課外授業の一環として夏山教室、冬山・春山スキー教室に使用され続けてきた。そのため、卒業生や教員の多くの方々がこの山荘を訪れ、数限りない思い出を作り続けてきた、石神井の伝統を伝える数少ない場所でもある。

学校行事としてこの山荘を利用していたのは、昭和36年から60年までの25年間である。そこで、黒菱山荘を語るにあたり、内容を以下の3パートに分けてご紹介する事としたい。

最初は、山荘を建設するまでに至った経緯について。都立高校がなぜあの様な立派な山荘を保有できるに至ったのかについて記したい。

次に、25年間続いてきた学校行事について。数多くの人達が思い出を作っていったその生活についてごく一部ではあるがご紹介したい。

最後に、現在の黒菱山荘について。学校行事が行われなくなり、卒業生主体の利用形態となった山荘の近況と今後につき記すこととしたい。

昭和58年10月
山荘と白馬三山
昭和60年1月
山荘前 雪像
昭和52年8月
夏山

 

 
昭和58年10月
山荘と日の出

2. 山荘建設

昭和39年の校誌石神井に、山荘建設に尽力された黒崎先生が、建設に至る経緯を実に丁寧にまとめていらっしゃったので、ここにその一部分を引用させていただく。

 
「いつごろからであったか思い出せないが、とにかく私の周囲に十名内外の山の好きな仲間ができていた。何々山の会などといういかめしい名称も、うるさい規約もない、自然発生的にできたグループである。それでも年間を通じ何回かの山行を行なったし、種々の係りも時々に応じて当を得て決まったものである。メンバーは石神井の卒業生とその他半々で「だれかがさそえばすぐにまとまり、無理算段をしてでも出かけて行く」といった気軽な山仲間である。したがって山行も激しい闘争心をかき立てる種のものではなく、ひょうひょうとした四季の尾根歩きやスキーツアーを主としたものであった。(中略)
そのグループの山行に必ず組み込まれるのが冬の八方尾根と春の八甲田のスキー計画であった。年越しの八方尾根、滑りおさめの八甲田はその日時までが毎年同じように行われた。(中略)
山小屋設立の候補地として八方尾根黒菱を選定したのは昭和三十二年の秋である。黒菱はそのグループや本校の山岳部が毎冬訪れるところであったし、数少ない山スキーのメッカと言われていた所である。スキーは温泉・リフトのあるゲレンデがあってこそと考えている人々にはほとんど知られず、山が好きでたまらない人々のみが、ひっそりと山と雪に親しんで来た所であった。そこのよさを話しても、スキーではベテランを自負する人さえ鼻もひっかけようとはしなかった。三時間も雪の山を登り、電灯もない山小屋が一軒だけポツンと雪にうずもれてあるような所では洗練された神経の人には無理もなかったことかもしない。その年の暮れから三十三年の正月にかけて例のごとく黒菱を訪れた帰り、正月の五日の夜、ふもとの細野部落(現在の白馬村)にある丸山与兵衛氏の宅で最後のコンパを行った。丸山氏には前々より種々のめんどうをかけ、お世話になって居た。丸山氏をかこみ久々に風呂に入って怪気談をあげている時、山小屋設立の敷地の相談をしたところ、丸山氏も大賛成をしてくれ、その部落との交渉をひきうけてくれた。」

 
長い引用となったが、ここまでが山荘設立のきっかけであり、このあと黒崎先生らは、山岳部および山岳部OBに相談し、共同計画で建設をすすめることとなった、と記してある。その後、当時の松木校長に相談され、山岳部OB会らの協力のもと、学校施設として建設する見込みがたち、昭和36年7月に竣工式を行うまでに至ったそうである。

竣工式を迎えた時の感慨を、黒崎先生は次のように記されている。

 
「七月二十五日には手崎会長、畑山校長の参列によりおごそかに竣工式が行なわれた。こうして黒菱山荘は完成した。この間、どれほど多くの人々の熱意と善意の行為があったことだろうか。松木前校長の先見、畑山現校長の積極的な生徒指導理念と実行力そして私ごときのものに建設事務連絡をおまかせ下された土屋校務主任、何かと細かい心配りで、建設の便宜を計って下さった、若菜、渡部、田中、石木の諸先生方、時々感情的に参ってしまうのをはげまして下さった水谷先生、そして学校の先生方全員の理解ある御協力、後援会の会長を始めとする方々の熱意、そしてまったく表面に現われることなく黙々として文字通り縁の下の力持ちぶりを発揮して下さった山の仲間や山岳部OBの諸君、丸山与兵衛氏の並々ならぬ御厚情……黒菱山荘はそういったあがない難いものの結晶なのである。」

 
その竣工式が行なわれた日から生徒の夏山教室が開始され、以降長きに亘る石神井の伝統の一つが始まったわけである。山岳部OBで、山荘の設計者でもある千賀氏(高校6回)が、昭和63年の校誌石神井で以下のように記している。

 
「今でこそ、黒菱山荘まで、きれいに舗装された林道があり、車ですぐ登ってしまいますが、当時はケーブルだけで終点の兎平から建物の柱やセメントの資材を人の背を借りて荷上したものでした。鍋・釜類や寝具なども同じようにOBの力を借りて荷上され、『プラスチックの食器では食べた気がせん。俺に任せろ。』と重い瀬戸物を背負って頑張った男もおりました。」

 
黒菱山荘はまさにこうした石神井高校を取り巻く人達の絶大な熱意の総意で建てられたのである。

昭和51年5月
山荘
昭和59年5月
対岳館

 
落成記念の手拭
 
昭和51年5月
唐松岳へ

3. 学校行事と黒菱山荘

竣工と同時に黒菱山荘は、学校の課外活動用の施設として使用を開始され、毎年数多くの生徒を迎え入れ続けてきた。夏山教室は、例年7月24日から8月6日頃まで唐松岳登山や飯倉炊飯などを主体に山小屋の生活を体験できるような内容を工夫してきた。

冬山教室はスキー講習を主体とした内容で、例年12月24日から1月7日頃まで年越しの実施、春山教室は3月22日から4月5日頃までそれぞれ行なわれてきた。

各教室は、それぞれ3つの班に分けられ行なわれてきた。一つの班は通常教員2,3名と生徒30名前後で構成し、東京から教員の方々が夏は電車、冬春はバスで引率してこられた。

一行が入荘してから出荘するまでは、石神井の卒業生の有志が学生時代の間、2,3年に亘り生活指導や炊事等、生徒たちの世話をしてきた。

この有志は、当初山岳部OB、OGを主体に始まったが、次第にその輪は石神井高校の中に広がり、高校時代に山経験のない人達もこの山荘の魅力にひかれ、毎年山荘の仕事を引き継いできた。いわゆる山荘OB、OGである。その山荘OBの一人である佐藤氏(高校25回)は、当時のことを昭和50年の校誌石神井に次のように記している。

 
「二人、二人、三人。赤いザックに黄色いザック。両手に袋をぶら下げている生徒もいる。尾根つたいの涼風が心地良いことだろう。いよいよ生徒達の到着である。
一週間前から準備の為に入荘していた我々OBが最もうれしいそして緊張する瞬間である。今朝はいつもより念入りに歯を磨いたし、久しぶりに髭も剃ったし、ザックの奥の方に仕舞っておいた櫛なども登場した。OBの頭髪に何日振りかの分け目が入っている。リーダーのS氏はアフターシェーブローションまで塗っている。紅一点のN女史は唖然。」

 
黒菱山荘近辺でのスキー講習は、本格的なアルペンスキー場ということもあって、素人の生徒を指導するのは一苦労であった。山荘OBの直川氏(高校26回)は昭和50年の校誌石神井に以下のように記している。

 
「様々な方法でスキー教育が行われていた。ゲレンデにスリッパで出て行き、大声をはりあげる先生、一本滑っては『プカー』と一服するOB、八方のゲレンデをあちこちと時間一杯滑りまくる先生、ムカデ、練習後に山荘の裏で泳いだこともあった。新雪のため、雪の中を泳ぐのである。このような中から、生徒と教師のコミュニケーションが、一層深まっていったようである。」

 
山岳部や山荘OBあっての山荘と思われがちだが、山荘における教員の方々の存在というのは絶大であり、ご多忙の中、山荘を支え続けてきて下さった教員は数知れない。昭和39年に石神井に赴任なさり、その後20年以上もの長きに亘り山荘に尽力されてきた保母先生もそのお一人である。

 
「冬のスキー指導は寒さとの戦いである。易しいスキー操作の反復練習の後、歩き始めるが山荘を一周するのに小一時間必要である。強風で有名な八方尾根では、山荘周辺の地形が複雑怪奇の様相を呈し、雪面とスキー操作の読みがないと動きがとれない。熟練者は一周に2分と掛からないから、じっと待つ。助けたい気持ちをおさえ我慢する。寒さに耐えることは初心者指導の必須の条件である。(中略)春のスキー教室が終り、後始末の仕事が始まると、幾人かのOBの落着きがなくなる。大学も4年となると就職、卒業論文等で多忙になり、山荘を追い出されることになるからである。教え子と教師の関係は、とっくの昔に消え、同じ釜の飯をつついた山の仲間であり、スキー仲間である。保母『先生』がいつの間にか『サン』になっており山荘の先輩達を呼ぶ呼び方と同じになっている。」

 
一方、山荘の存在意義そのものであった生徒の目には、山荘とはどういう風に映っていたのだろうか。

 
「山荘は素晴らしい所だと思います。学年など関係なく新しい友達がたくさん出来、東京では決して味わえない生活ができます。
今の世の中、お金さえ出せば好きな所へ、好きなことをしに行けます。しかし、見知らぬ人達との集団生活で新しい友達を得たり、楽しさ、素晴らしさを味わうことは決してどこででも経験できることではありません。年々山荘に来る人が減ってきて、それも特定の人達に限られてきています。もっともっと多くの人に来てもらい、いろいろな経験をし、たくさんの思い出を作っていってほしいと思います。」

 
と、昭和58年の校誌石神井で語ってくれたのは、高校時代に五回も山荘を訪れ、自らも山荘OBとなった今井氏(高校36回)である。時代の流れの中で山荘利用者は、減少の一途をたどっていった。だが、石神井の伝統と言うべきこの山荘を愛する心は、ずっと生徒達を通じて伝えられてきたことだけは確かなようである。

そして山荘の理解者として忘れてはならないのが、父母と教師の会のご父兄たちである。父母と教師の会の方々には毎年我が子の課外授業の場を一目見ようと、多くの方々にご訪問頂き、その山荘の生活の一端を体験していただいている。山荘OGでいらっしゃった楓さん(旧姓新山・高校26回)は、父母を山荘にお迎えしたときの印象を、昭和54年の校誌石神井に次のように記している。

 
「お母様方が山荘へ入られますと、料理係の私は針のムシロに立だされました。生徒の皆さんの食事を作るときと決して心構えは違っていないのですが、何といいましょうか胸がどきどきしていたような気がします。毎日食事作りをなさっているプロの口に合うかどうか心配でした。多少の不満があっても無理をして食べて下さったのではと、今になって思い返すことがあります。」

 
山荘を訪れた父母の方々は、皆さん山荘のよき理解者となってくださり、今日までこの山荘を支えてくださっている。このPTAの山荘ツアーは平成23年の現在も継続されている。

昭和56年7月
唐松岳へ
昭和56年7月
唐松岳
石神井ケルン
 
スキー教室
 
スキー教室
 
昭和52年4月
春スキー教室
昭和59年1月
冬スキー教室
昭和59年1月
冬スキー教室
昭和59年1月
山荘ミーティング
昭和59年1月
台所

4. 学校行事終了後の黒菱山荘

 
「昭和60年から黒菱山荘を使用しての校外施設(夏山教室、冬・春山スキー教室)が諸般の事情で中止となり、山荘の存続が危ぶまれたが、61年より同窓会が山荘の管理運営への参加を受け入れたために、山荘運営の実務は同窓会に移管し山荘OBがその任にあたっている。」

 
昭和63年の校誌石神井で、当時の教頭でいらっしゃった北川先生はこう記されている。石神井高校を中心に集まった山仲間の熱意の結晶で建てられた山荘が、学校施設として石神井の伝統を築き上げた。そして生徒が来なくなった今、その役目を終えたかのように見える。現在山荘の管理を行っているのは、私たち同窓会の有志であるが、石神井高校の生徒のための施設として建設が許された山荘であるからこそ、そう感じる方々がいらっしゃるのは当然とも言えよう。

歴史を閉じる決断はたやすいことであるが、時代を乗り越え、後世に引継ぎ続けることはことこの山荘に限って言えば、これほど「きずな」を強く感じることが出来る物理的な存在はないと考えている。

あまり知られていないのだが、毎年黒菱山荘委員会では、学校のご協力の元、数名~10名程度の山荘教室を開催している。平成22年の冬も10名程度の生徒を受け入れ、昔とさほど変わらない生活を黒菱山荘で体験してもらっている。

その際、入荘と下山の際に、地元対岳館の丸山庄司様、そのご子息で館長の徹也様にご挨拶をさせていただいたが、庄司様から「下山後の生徒たちの目が変わっていたね。」とおっしゃってくださったのには驚かされた。山荘の存在意義は、やはり多感な世代である現役の高校生達に山の生活を体験してもらうことなのだ、と再認識させられるお言葉であった。

現在、黒菱山荘の管理および運営を担当する黒菱山荘委員会は、同窓会の下部組織として、10名弱のスタッフで維持管理活勤を継続している。この10年あまり、新しいスタッフの参画もないのが気がかりではあるが、みな山が好きだし、石神井が好きだし、仕事以外で気軽に付き合うことが出来る数少ない面子であり、とてもチームワークよく活動出来ている。

 
「軽率な利用をしない限り、黒菱山荘は石神井高校の誇りうる校外授業の場として大いに役立つものであるにちがいない。」

 
この、27年前の黒崎先生の言葉が今も生き続けていると信じ、石神井高校に関係する皆様方のご来訪を心よりお待ちしている。